徳島県板野郡 藍住町勝瑞(しょうずい)は、室町時代後半に阿波国守護
細川氏によって 守護所が置かれた地です。
江戸時代の後半、文化年間に徳島藩の儒学者であった佐野山陰によって編纂された『阿波志』には、勝瑞の町について次のように書かれています。
また、『昔阿波物語』には、勝瑞の地に市が立ち並び、活発な経済活動が繰り広げられていた様子が記されています。
さらに、「阿州三好記大状前書」(『阿波国徴古雑抄』所収)によると、勝瑞には27の寺院が立ち並んでいたとされ、宗教都市としての側面も見られます。
このように、室町時代から戦国時代にかけて阿波最大の都市として栄えた
勝瑞も、天正10年(1582)に長宗我部氏によって阿波が制圧されると共に廃絶に向かいます。
天正13年(1585)には豊臣秀吉から阿波を拝領した蜂須賀家政が城地を徳島に定め、城下町建設を始め、勝瑞にあった寺院などを徳島城下に移します。
そうして、勝瑞は歴史の表舞台から姿を消し、田園地帯へと化すこととなった
のです。
当時の人々の生活の痕跡は、現在も地中に脈々と息づいており、発掘調査によって徐々にその姿を現しつつあります。
細川氏・三好氏の関連遺跡は、勝瑞一帯に広がると考えられ、 国史跡「勝瑞城館跡」を含む中世遺跡群を「守護町勝瑞遺跡」と呼んでいます。その中では、今後の調査で武家屋敷跡や寺院跡、市場跡、町屋跡なども見つかり、阿波が最も輝いた時代がよみがえってくることでしょう。