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コラム・読み物



読み物… ■勝瑞時代の祖谷山■



コラム
第1回 「少年の変な趣味と勝瑞城跡の発掘」 三好昭一郎。

 私が城に興味をもったのは,小学校4年生のころだと記憶する。
その契機は絵葉書の収集にあったのだが,徳島県に天守閣や櫓の一つもなかったことが残念でならなかった。  
6年生の頃だと思うが,徳島県下にも勝瑞城や阿波九城が存在していたことを,日記帳付録の全国城郭一覧表というので知らされた。一宮城や撫養城の石垣を見て,小学生なりに復元図を描いて悦に入ったりしていたものだ。  
勝瑞城散策,というより,ここで作業をさぼって遊んだのは中学2年生のときで,昭和18年の6月ごろ,付近の農家への麦刈り奉仕のときのことである。城というには石垣の一部も発見できなかったが,周囲の濠一面の蓮の葉が印象に残っている。 未だ上空には米軍のB29が飛び交う以前のことであった。
 ひょんな縁で昭和59年度から町の文化財行政を手伝うことになったが,何としても中学生のころの疑問は少しでも知りたいと思った。その意味で今日の発掘調査に期待するものは大きい。

第2回 「勝瑞調査雑感」 福家 清司

  昭和63年,当時私は中世の遺跡である徳島市中島田遺跡の報告書をまとめていた。
この時,かねて聞いていた勝瑞の長尾鉄工所構内から出土したという土師器皿数点を
実見,実測させてもらう機会があった。その土師器皿は,当時,県内ではほとんど出土例がなかった京都系土師器であったことから,勝瑞には中世の守護町の遺構が地下に埋まっていることを確信し,それまで全く行われていなかった発掘調査の必要性を痛感した。
その後も勝瑞の発掘調査の機会はなかなか訪れなかったが,平成4年に町から県史跡
「勝瑞城跡」の公園整備の協議が県文化課にあったことがきっかけとなって,事態は劇的な変化を遂げた。   
町は県の意見を全面的に採り入れ,新たに学芸員を採用して,勝瑞城跡の発掘調査に
着手したのである。平成6年のことであった。その後の華々しい調査の進展と成果を
思うとき,当時の町の関係者の英断,先見の明に改めて心から感謝と敬意を表したいと思う。

第3回 「阿波の中世史を正す一級資料の発見」 尾野 益大

 勝瑞とは因縁があるのだろうか−。  
勝瑞城館跡が発見された一九九九(平成十一)年,七月九日付け朝刊で発見のニュースを新聞一面に報じた。 六年後の二〇〇五(平成十七)年二月,その東側隣接地で新たに出た池の跡,主殿跡について記事にする機会に恵まれた。勝瑞の地名が吉兆を意味する「祥瑞」に由来する説を,個人的には信じられる気持ちだ。  
 さて今回の発見は,三好氏館の確実性と氏の権力の絶大さを示す一級資料の発見といえる。そして阿波の中世史を正し,守護細川氏から受け継いだ三好氏の文化が見事花開いて,全国に発していた事実に気付かせてくれた。
  日々刻々,歴史が刻まれるわけだが,空白期の歴史や誤った歴史の修正に結びつく発見の取材は,緊張を強いられつつも充実感を生むことを改めて実感した。背景には 遺物の時代考証や値打ちを判断して,門外漢にも懲りずに丁寧に教えてくれる学芸員ら関係者の優しさがある。 私事だが,祖父の代まで先祖が奥野和田に住んでいた。勝瑞とは因縁がなくても, 藍住の因縁があるのかもしれないと少し思い始めている。
引き続き,守護町勝瑞と阿波の中世史の解明を大いに期待したい。


第4回 「勝瑞時代の祖谷山〜中世名主たちの戦歴」 下川 清

 天正13年(1585)の蜂須賀氏阿波入国に対する反乱から,元和6年(1620)の刀狩り強訴を経て,祖谷山36名の中世名主たちの半数が絶えた。この事実からして,
中世阿波における祖谷山の小領主たちの戦力はあなどれないものだったようである。   戦力としての祖谷山を語る上で,『阿波國徴古雑抄』には興味をひかれる文書が二通所載されている。一通は,「卯月十九日 澄元(花押) 伊屋衆中」とあり,もう一通は,「七月十八日元綱(花押) 阿佐殿 大枝殿 今井殿 御宿所」とある。前者は, 「そちらへ落ちていく者を捕らえよ」,後者は,「大西方は当方に味方したのに,まだ出陣しない。言語道断である」といった具合で,文末には両者ともに「三好筑前守が伝える」とある。年紀が記されてないが,おそらく,細川澄元と三好之長が阿波から兵を率いて上洛したという永正8年(1511)か,阿波で挙兵したという永正16年(1519)のものではと推測する。阿佐・大枝・今井ともに祖谷山の中世名主たちであることは言うまでもない。
  後世の記録ではあるが,喜多氏による『祖谷山旧記』には,戦力としての祖谷山中世名主たちの姿が,次のように記される。例えば,阿佐佐渡守が永正15年8月3日,板東の合戦で討死し,嫡子紀伊守は,天文のころ,細川持隆と三好筑前守の合戦で三好氏に随い軍忠,恩賞に半田北山を領知したが,金丸庄高下城敗軍のため祖谷山へ入り,阿佐名に住居した。
  また,西祖谷山の有瀬右京進成貞が,大西出雲守旗下として,天文年中,勝瑞の乱の砌,三好に一味し,一統高名,有瀬名並びに土州岩原村で百石を領知した,とある。   しかし,後には,阿佐氏も,東十二名の旗頭として長曽我部に与し,勝瑞城を討破ったとあり,さらに,さたみつ(貞光)口へ打出ということだが,心遣には及ばない, 山分を固めよと記された,「七月廿日 長宮元親 判 すげおい殿 くぼ殿 西殿」
という天正の文書も載せられている。菅生・久保・西(山)ともに祖谷山の領主たちである。