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発掘調査のあゆみ

正貴寺跡 しょうきじあと



調査地点

「阿州三好記大状前書」(『阿波国徴古雑抄』所収)によると、勝瑞の町には27の寺院があったとされます。いくつかの寺はその伝承地が残っています。

    正貴寺
  一 五間半ニ拾壱間客殿、四間ニ八間庫裏、並三間ニ四間
    取次、貳間ニ三間玄関、唐破風作、貳間四方鐘撞堂  
  一 三間四方護摩堂、本尊不動、三間ニ五間土藏、三間ニ
    九間之下坊主部屋、三間ニ八間奥坐敷、三間ニ五間仁
    王門、三間ニ四間表門、二間半ニ三間裏門、貳間ニ三
    間寶藏、寺立ハ南向也、本尊阿弥陀釈迦御作也、並大
    師御錫杖花さし貳ツ、但志やくどう、三好殿御上被為
    成候、御紋付幕貳張、大師御自筆御影一幅、屋敷壹丁
    七反餘、四方ニ藪なり

               (「阿州三好記並寺立屋敷割次第」『阿波国徴古雑抄』)


 勝瑞城跡から南東方向に約700m、JR勝瑞駅の西側に正喜地という小字があります。
 周辺には五輪塔が散見でき、屋号を「寺門」とする一軒の家があります。
 従来からこの付近は三好氏の祈願寺であった正貴寺跡であると言い伝えられていました。


正貴寺跡第1次発掘調査  平成9年度/1997年


  平成8年、農作業をしていた地権者より、「ビニールハウスのパイプが刺さらないので掘ってみると、大量の瓦が出てきた」との通報があり、 現地へ向かうとそこには中世の瓦が大量に埋まっていました。
 翌年、確認調査を実施すると、そこからは大量の瓦が掘り出されその下から二間×二間半の礎石建物跡が検出されました。


検出された礎石建物跡

 この付近の基盤層は砂地でしたが、その上に粘質土を敷き詰めた整地層が確認されました。寺の建物は、この整地層上に10㎝程の地固めの石を敷き詰め、さらに50㎝大の礎石を置いて建てられていました。

←出土した鬼瓦

 出土遺物としては、鬼瓦を含む大量の瓦をはじめ、土師器皿や国内外産陶磁器、寺院跡を思わせる五輪塔などがありました。
●正貴寺跡第1次発掘調査
…調査期間 平成10年1月19日~平成10年2月27日
…調査面積 120㎡

正貴寺跡第2次発掘調査  平成25年度/2013年

 正貴寺跡の範囲・内容の確認のため調査を行ったところ、第1次調査と同様に大量の瓦とともに、礎石建物跡が検出されました。
また、土師質土器や国内外産の陶磁器なども出土しました。


正貴寺跡2次調査区全景

  
出土した大量の瓦               礎石に柱を設置 

 第1次・第2次発掘調査で、大量の瓦とともに礎石建物跡が発見され、多くの出土遺物もあり、良好な保存状態で寺院関連の遺構が 残存していることがわかりました。
 
これらの成果から、平成26年10月6日、三好氏の祈願寺である正貴寺跡が国指定史跡に追加指定されました。
●正貴寺跡第2次発掘調査
 …調査期間 平成25年7月19日~平成25年9月30日
 …調査面積 400㎡

正貴寺跡第3次発掘調査  平成26年度/2014年

 正貴寺跡第3次調査では、大規模な礎石建物跡が検出されました。
 今までの調査でも礎石建物跡は検出されていますが、その規模などは分かっていませんでした。


検出された礎石建物跡

検出された雨落ち溝→ 

 今回検出された建物跡は桁行五間、梁間六間半の規模で、その南側には雨落ち溝も約15mの長さで検出されています。建物跡は推定される寺域のほぼ中央部に位置することから、もしかすると 正貴寺の本堂にあたる建物かもしれません。
 また、礎石建物跡の南側に、鉄滓を大量に含んだ土坑2基と金床石1点の鍛冶関連遺構も検出されています。建物を建てる際に必要な釘 などの金具を作ったり、鋸や槍鉋などの工具の修理等をここで行ったのではないかと考えられます。

←炭化物を含む層から出土した硯

 正貴寺は、焼けた壁土や瓦・炭化物を大量に含んだ層が確認されていることから、最終的には消失したと考えられています。
 廃絶年代は、16世紀後半と推定されています。

●正貴寺跡第3次発掘調査
 …調査期間 平成27年1月13日~平成27年3月13日
 …調査面積 370㎡

   ● 発掘調査のあゆみ ●