江戸時代の後半、文化年間に徳島藩の儒学者であった佐野山陰によって編纂された『阿波志』には、勝瑞の町について次のように書かれています。
| 「勝瑞城 南は貞方に至る。北馬木に至る。南門西貞方小島の間に在り。台を距る千二百歩許り。延元二年源頼 春此に居る。(略)池を穿つ三重。貞方、吉成、住吉、音瀬、矢上、笠木、高房等皆羅城中に在り。」 |
こうした記述などから、勝瑞には大規模な町が形成されていたことが考えられます。
遺跡周辺の平均標高は約2.5mの低い土地で、遺跡の主体は旧吉野川南岸に形成された微高地上に展開します。吉野川は、大正十五年(1926)の築堤までは暴れ川で、遺跡の周辺にも複雑な古い川の流れの痕跡が認められ、周辺には「浜」・「船戸」・「渡り」などの地名が残った地点があることなどから、河川交通の盛んな中世都市が形成されていたことがうかがわれます。
また、『昔阿波物語』には、勝瑞の地に市が立ち並び、活発な経済活動が繰り広げられていた様子が記されています。
さらに、「阿州三好記大状前書」(『阿波国徴古雑抄』所収)によると、勝瑞には二十七の寺院が立ち並んでいたとされ、宗教都市としての側面も見られます。
このように、室町時代から戦国時代にかけて阿波最大の都市として栄えた勝瑞も、天正十年(1582)に長宗我部氏によって阿波が制圧されると共に廃絶に向かいます。
天正十三年(1585)には豊臣秀吉から阿波を拝領した蜂須賀家政が城地を徳島に定め、城下町建設を始め、勝瑞にあった寺院などを徳島城下に移します。そうして、勝瑞は歴史の表舞台から姿を消し、田園地帯へと化すこととなったのです。
当時の人々の生活の痕跡は、現在も地中に脈々と息づいており、発掘調査によって徐々にその姿を現しつつあります
細川氏・三好氏の関連遺跡は、勝瑞一帯に広がると考えられ、国史跡「勝瑞城館跡」を含む中世遺跡群を「守護町勝瑞遺跡」と呼んでいます。その中には、今後の調査で武家屋敷跡や寺院跡、市場跡、町屋跡なども見つかり、阿波が最も輝いた時代がよみがえってくることでしょう。
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