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勝瑞時代の祖谷山

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第1話

  天正13年(1585)の蜂須賀氏阿波入国に対する反乱から,元和6年
(1620)の刀狩り強訴を経て,祖谷山36名の中世名主たちの半数が絶えた。
この事実からして,中世阿波における祖谷山の小領主たちの戦力はあなどれないものだったようである。

  戦力としての祖谷山を語る上で,『阿波國徴古雑抄』には興味をひかれる文書が二通所載されている。一通は,「卯月十九日 澄元
(花押) 伊屋衆中」とあり,もう一通は,「七月十八日元綱(花押) 阿佐殿 大枝殿 今井殿 御宿所」とある。

前者は,「そちらへ落ちていく者を捕らえよ」,後者は,「大西方は当方に味方したのに,まだ出陣しない。

 言語道断である」といった具合で,文末には両者ともに「三好筑前守が伝える」とある。年紀が記されてないが,おそらく,細川澄元と三好之長が阿波から兵を率いて上洛したという永正8年(1511)か,阿波で挙兵したという永正16年(1519)のものではと推測する。
  阿佐・大枝・今井ともに祖谷山の中世名主たちであることは言うまでもない。

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第2話

  後世の記録ではあるが,喜多氏による『祖谷山旧記』には,戦力としての祖谷山中世名主たちの姿が,次のように記される。

  例えば,阿佐佐渡守が永正15年8月3日,板東の合戦で討死し,嫡子紀伊守は,天文のころ,細川持隆と三好筑前守の合戦で三好氏に随い軍忠,恩賞に半田北山を領知したが,金丸庄高下城敗軍のため祖谷山へ入り,阿佐名に住居した。

  また,西祖谷山の有瀬右京進成貞が,大西出雲守旗下として,天文年中,勝瑞の乱の砌,三好に一味し,一統高名,有瀬名並びに
土州岩原村で百石を領知した,とある。

  しかし,後には,阿佐氏も,東十二名の旗頭として長曽我部に
与し,勝瑞城を討破ったとあり,さらに,さたみつ(貞光)口へ打出ということだが,
心遣には及ばない,山分を固めよと記された,「七月廿日 長宮元親 判 すげおい殿 くぼ殿 西殿」という天正の文書も載せられて
いる。菅生・久保・西(山)ともに祖谷山の領主たちである。

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第3話

  『祖谷山旧記』『阿波志』等によれば,勝瑞擾乱の際,高名を遂げたと
される,西祖谷山有瀬右京進成貞の祖先は,清和天皇十一代の孫,小笠原又太郎長房(長清の弟・阿波守護),後に号して左兵衛佐というとされる。
源,橘とも称した。

 長房の八代の後胤,宮内少輔成春の舎弟左兵衛家貞(貞成,一宮左兵衛
とも),嫡男左兵衛佐成次は三好郡池田庄に居り,その後,祖谷山有瀬名を
領し,以来,有瀬氏を称した。

 成次の嫡男,右京進成重は,永享年中(1429〜1440),土州豊永城主豊永中将との領界争いで,中将の計略により酒宴に招かれたが,危うく難を遁れた。成重は,有瀬の城に攻め寄せた中将方を追い返し,敗走する中将を土州藤ケ岩屋で討取ったという。

 成重の嫡男が,寛正五年(1464)の讃州宝田合戰で討死した成正,
その曾孫が,勝瑞擾乱の功により有瀬・岩原百石を領した右京進成貞で
ある。後に,成貞の嫡孫,右京進成清は,蜂須賀家政から有瀬五拾石を拝領し,「土州御堺目之奉行」を命じられる。
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第4話

 由緒書を信ずるとすれば,勝瑞で高名を遂げたとされる有瀬右京進成貞の
祖先が,小笠原長房であるという記述は,勝瑞城館に係る歴史を考える上で
見過ごしては通れない。

 小笠原長房は,承久の乱(1221)の功績により阿波守護となった小笠原長清の二男である。兄長経が池田大西城を去るにあたり,守護職を譲られ,
叙従四位,文永四年(1267)鎌倉の命により,三好郡領平盛隆を亡ぼし,
美馬・三好を領したとされる人物である。

 そして,彼から数代を経て,登場するのが三好を名乗ったとされる義長,
さらに数代を経て,三好長慶・義賢・長治が生まれる。つまり,勝瑞城館の
主,三好義賢・長治と有瀬右京進成貞は,まさしく小笠原長房を祖とする同族であり,同時期に生きていた。

 永正8年(1511)から永正16年(1519)のものではと推測される,
『阿波國徴古雑抄』所載文書の澄元・元綱,三好筑前守之長の時代,有瀬は
讃岐で戦死したという成正の次世代であり,勝瑞の乱に加わる成貞の直前の
世代である。

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第5話

  『阿波國徴古雑抄』所載の『祖谷山旧記』は,宝暦九年(1759),祖谷山の政所であった喜多家が,藩に差し出した祖谷山高取たちの由緒書
である。

鳴門市の個人蔵『阿淡両國秘録』には,同様な内容のものが載せられて
おり,奥書に「寛文十一年(1671)亥年正月改之公儀江御記上被成候写」とあることから,少なくとも藩政初期段階から同様な記録は残されていたと
推測できる。

 これらによると,祖谷山で大規模な刀狩りが行われたのは,元和三年
(1617)である。

当時の祖谷山西分の代官澁谷安大夫から喜多安右衛門宛の書状には,蜂須賀蓬庵の御意により祖谷山中の名主持伝の刀剣類をすべて詮議し,二十七腰を受け取った,代銀については追って知らせるので,そちらから名主たちには申し聞かせられたい旨が記されている。

添付の目録はものすごいもので,事実とすれば,ほとんど国宝・重文級ばかりである。

 ちなみに,橘(有瀬)右京進所持は,備前國長光二尺三寸五分とされて
いる。
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第6話

 興味のある方のために,祖谷山刀狩りの記録を略記する。 ※( )内は尺寸分及び刃文。

 伯州住安綱(2.5直刃),粟田口権守久國(1.75直刃),相州住人五郎入道正宗(2.36大乱),同(1.75同),
越中國松倉郷義弘(2.3玉直刃)、
豊後國行平(0.95直刃)以上六振栗枝渡名主,
三條小鍛冶宗近(2.8直)、
阿佐名内九鬼大学,筑後國三池伝太(2.5直刃)鍛冶屋名主,
相州正宗(2.8直刃)奥ノ井名主,備前國正恒(2.5直刃)菅生名主,
河内國秦包平(2.7直刃)徳善名主,
山城國來國俊(2.6直刃)久保名主,備前國正家(2.46直刃),
奥州住人諷誦(2.7同)以上二振落合名主,
粟田口住人有國(2.35直刃)大枝名主,山城國來國俊(2.35丁字乱)田ノ窪名主,関住外藤(2.7小乱刃)釣井名主,筑後左(2.5小乱刃),
関住人金重(1.9乱刃)以上二振今井名主,
相州山内住人助貞(1.9直刃)大窪名主,
備前國長光(2.35直刃)有瀬名主,筑前國左(1.8丁字乱)
峯名主,山城國住人興福寺(2.5直刃)一宇名主,
大和國千壽院行信(2.5直刃),粟田口則國(1.8乱刃)以上二振重末名主,越中國住人則重(2.5直刃)田ノ内名主,大和國包永(2.65直刃)尾井内名主


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第7話

 元和六年(1620),名主のうち18人が名子670名を率い,刀狩りを
不服として強訴を決行,11人が断罪となる。落合彦七と尾井内七右衛門は息子まで殺されている。

 ところが,永正8年(1511)から16年(1519)のものと推測される文書の,阿佐,長曽我部元親による天正の書状の,菅生・久保・西山,
さらに有瀬・徳善の名主らは強訴に参加していない。

この事情は極めて複雑にからみあっているのだが,ここではさておき,
中世の勝瑞・三好,近世の徳島・蜂須賀という構図の中で見れば,
三好から長曽我部へ,そして蜂須賀へと,その時点での強い勢力にうまく乗り換えていくことのできた,ある程度の経済力・政治力をもった名主層が生き残っているのである。

 歴史に「もし」「たら」はあり得ないが,永禄五年(1562),久米田で義賢が,あるいは元亀三年(1572),上桜で篠原紫雲が戦死していなければ,近世の祖谷山もまた違った姿となったであろう。

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第8話

 阿佐佐渡守が永正15年(1518),板東の合戦で討死し,嫡子紀伊守
は,天文21年(1552),細川持隆と三好筑前守の合戦で三好氏に随い
軍忠,恩賞に半田北山を領知した,というくだりは既に紹介したが,
この阿佐氏の同族久保氏ら宛の興味深い文書が遺されている。

 慶長五年(1600)七月,石田治部少輔との関ケ原御合戦の砌,蜂須賀至鎭は家康に味方し,蓬庵は高野山に登る。阿波へは安藝毛利の軍勢が討入ったそのとき,菅生孫一郎,久保源次郎,西山主殿助の三人が,具足兜太刀刀を菰で包み,讃州より船路を忍び出,高野山へ向かい,蓬庵に目見える。その忠節に感じ,川口兵右衛門をして書付が下された。

 宝暦の久保右内家に所持する「八月二日 蜂須賀家政 御判 菅生とのへ 西山とのへ 落合とのへ くほとのへ」とあるその書状の内容
は,
よく来てくれた,祝着の至りであるというもの。どの程度の人数の
「馳走」だったかは知るよしもないが,書状が出されるのは半端ではあるまい。ただ,ここで不思議なこと,傍線部の違いがある。

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第9話

 「菅生孫一郎、久保源次郎,西山主殿助の三人」は,『祖谷山旧記』
本文,所載の書状写しには,「菅生 西山 落合 くほ」とあり,意図的に
「落合氏」が除かれている。

 この落合氏には,正平九年(1354),小笠原頼清から落合左衛門尉宛の
軍忠状があり,菅生・阿佐・久保・西山氏らと肩を並べるほどの勢力を
もっていたことが知られる。しかし,元和の刀狩りにおいては,本人は磔,
忰男子三名も殺害されている。

したがって,慶長の感状には,名が載っていても,宝暦の書き出しに載せるわけにはいかなかったのである。逆に言えば,近世初頭,落合氏は,それほどまでに,その存在が祖谷山の統治に障害となりつつあったのだろう。

 ちなみに,元和の刀狩における落合名主所持刀は「備前國正家二尺四寸
六分」「奥州住諷誦二尺七寸」。「正家」は文和(1352〜1356)ごろ,
「諷誦」は永延(987〜989)から康永(1342〜1345)の四時代にわたる
刀工である。両者とも先の落合文書の年代と整合する。

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第10話

 落合左衛門尉宛の小笠原頼清の書状は現存しないが,県指定有形文化財
「菅生文書」として,菅生氏宛の正平十二年(1357)と十五年(1360)の
二通が遺されている。宮内大輔・左馬権守などあり,当時南朝方から阿波守護に補任されていたと考えられている。

 同文書を時系列に並べると,康暦三年(1381)に至って北朝年号が使われており,ここで菅生氏は北朝方に属したことがわかる。

 続く永徳元年(1381)の菅生大炊助宛のものや,西祖谷山の徳善氏文書
に,天授三年(1377),康暦二年(1380)のものがあり,暦応四年
(1341)を初見とする祖谷山文書の語るかぎりでは,三十余年の歳月を
経て,東西祖谷山とも北朝に属していったようである。

 当時は,細川氏が秋月に本拠を置き,来るべき守護町勝瑞への胎動の
始まる,プレ勝瑞時代ともいうべき時代,三好之長らの活躍する勝瑞時代
へはあと約百年,小笠原系の祖谷山中世名主各氏の第一期激動の時代でもある。
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第11話

 東西祖谷山の中世名主が北朝に与してから約百三十年後,永正五年
(1508)阿佐氏宛の執達状が『阿波國徴古雑抄』に遺されている。
「永正五 二月廿三日 之連(花押) 祖山 阿佐殿」とあるその内容は,三好筑前守に子細は言ってある,彼の下知に随い,忠節を尽くすようにと
いうものである。

 以後,細川澄元と三好之長が阿波から兵を率いて上洛した永正8年
(1511)か,阿波で挙兵した永正16年(1519)のものと推測される
二通の文書,そちらへ落ちていく者を捕らえよという
「卯月十九日澄元(花押)」,大西方は当方に味方したのにまだ出陣
しない,言語道断であるという「七月十八日 元綱(花押)阿佐殿 御宿所」を経て,『祖谷山旧記』の語る,永正15年(1518),板東合戦での阿佐佐渡守討死へと続く。

 これらの文書は,三好一族の旗下に祖谷山中世名主たちが組み込まれた
ことを示している。そして,それは,否応なしに京畿の戦に影響を受けていた祖谷山の姿でもある。

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第12話

 本稿は,勝瑞時代における祖谷山中世名主たちの戦歴について概説して
いるが,今回から少々細微な部分に触れる。当時の武器の問題である。

 守護町勝瑞の発掘に関しては,平成9年度からお付き合いさせて
いただいているが,城・館ともに,少々不思議に思うことがある。遺物と
しての武器・武具類の点数の少なさである。

確かに,付属品としての,小柄・笄などは,いいものが出土しており,弾丸も発見されている。しかし,刀剣類が極めて少ない。これまでの発掘が建物跡や庭園中心であり,濠を全面に発掘したわけではないので,一概には言えないが,少なくとも廃絶した時期の戦闘を考えると,折れた太刀や鑓の
穂先,鏃などがもっと見つかってもよいはずである。

 三好一統を中心とする阿波衆の戦闘力は畿内でも有名であり,その統領たる長慶らの佩刀は,すでに江戸期から著名であった。ちなみに,三好長慶所持と伝えられる銘「阿州氏吉作」二尺一寸の刀(現存)は,黒田家伝世品となり,名物岩切海部と称されている。
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第13話

 岩切海部は名称どおり,阿波海部で室町期からいわゆる海部刀を鍛えた刀工「氏吉」の作である。

信長上洛まで畿内の覇権を握った長慶が,阿波の誇る刀工氏吉の鍛えた刀を所持していたというのも,県民として誇らしい。海部刀はその切れ味で知られ,大名家では一振りは蔵していたといわれるほどである。「岩切」の呼称はまさに海部刀にふさわしい。

 『図説刀剣名物帳』(辻本直男補注、1970・雄山閣)によれば,長慶は相模の名工正宗作の「三好正宗」と称される八寸三分の短刀,無銘ではあるが,越前の名工郷義弘作と伝えられる「三好江」の短刀を所持していたという。後者の伝来は不明だが,前者は本阿弥光刹から求め,その子義長が信長に献上,信長から細川幽齋へ,幽齋から子忠興へ,関白秀次,秀吉と伝わり,前田利家が遺品として拝領,子利長から家康に献上し,以後徳川家に伝世
した。

 細川忠興が所持していたとき,佐々成政が三千貫で譲り受けを
請うたが,手放さなかったという逸話がある。

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第14話

 長慶の弟たち,義賢・冬康・一存ともに名刀を所持していた。

義賢所持は備前の名工光忠作二尺三寸,通称「実休光忠」,後に信長のものとなる。美濃の名工志津兼氏作二尺一寸八分,通称「安宅志津」を所持していたのは冬康,一存も,一尺九寸三分,
備前光忠,通称「池田光忠」,
八寸七分,通称「十河(若江)正宗」の短刀を所持していたとされる。
このほか,三好宗三,松永弾正らも,世に知られた名刀を所持していた。

 ただ,三好家に凶運をもたらした刀剣もある。それは,正宗門下といわれる貞宗作の刀剣である。

一書によれば,天正五年(1577),三好長治が自刃に使った脇指が貞宗で
あり,この脇指は,その前年,彼が鷹狩りの際に船頭を手討にしたときの
ものでもあった。

さらに,永禄七年(1564),冬康が,岩成主税により飯盛城内で討たれたのは,まさしく貞宗作二尺一寸五分の刀であった。この刀は,
「安宅貞宗」,
切れ味のよさからか,「水に降る雪」とも呼ばれ,秀吉から前田利家に,
さらには徳川将軍家へ渡ったという。
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第15話

 現物の遺存は確認できないが,記録の上では,祖谷山の刀剣も三好一統の刀剣に劣らない。すでに述べたところだが,『祖谷山旧記』等に残る,
元和三年(1617)の刀狩りのラインアップは凄まじい。特に,中世以来の
有力名主層の所持刀剣には圧倒される。

 菅生(榊原織部介)備前國正恒,久保(阿佐兵庫)山城國來國俊,
阿佐(阿佐紀伊守)三條小鍛冶宗近※阿佐名の内九鬼大学所持,
釣井(播磨左近)関住外藤,落合(橘大膳)備前國正家,奥州住人諷誦,
大枝(武集平馬)粟田口住人有國,今井(黒田監物)筑後左,
関住人金重,奥ノ井(松下平太)相州正宗,
栗枝渡(松家隼人)伯州住安綱(2.5直刃),
粟田口権守久國(1.75直刃),相州住人五郎入道正宗(2.36大乱),
同(1.75同),越中國松倉郷義弘(2.3玉直刃),豊後國行平(0.95直刃)
いずれも平安から南北朝にかけての名刀ぞろいであり,特に,斜体とした
ものは,同名刀工の作品が国宝・重要文化財に指定されているほどの
有名なものである。

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第16話

 こうした著名刀工の刀剣を佩き,中世祖谷山の領主たちは各地の戦に出かけたのであろう。勝瑞時代もしかりである。

 勝瑞城館跡の時代に特化すれば,後世の記録ではあるが,
『祖谷山旧記』『阿波志』の記述を借りれば,天文二十一年(1552)の
持隆と義賢の争いから,天正十年(1582)の勝瑞落城までの間に,何度か
出兵している。

 まず,天文二十一年には,東祖谷山の阿佐紀伊守が,三好氏に
随い軍忠,恩賞に半田北山を領知したとある。また,
西祖谷山の有瀬右京進成貞は,大西出雲守旗下として,三好に一味し,
一統高名,有瀬名並びに土州岩原村で百石を領知したという。

 なお,前者には『昔阿波物語』などとの記述の混乱が見られ,阿佐氏の
属したのは三好之長で,之長は金丸小高下の城で敗軍,阿佐へ逃げ込んだとされており,また,天文年中は金丸城(旧三好町)にあり,後,
三好長治に属したともされている。
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第17話

 天正に入ると,祖谷山の事情は変わってくる。さたみつ(貞光)口へ打出ということだが,心遣には及ばない,山分を固めよと記された,「七月廿日 長宮元親 判 すげおい殿 くぼ殿 西殿」という天正の文書からも推測されるが,三好方であった祖谷山の領主たちは,一挙に土佐元親に
与することになる。

 同時期,東祖谷山の阿佐氏も,東十二名の旗頭として長曽我部に与し,
勝瑞城を討破ったとある。

東十二名とは,菅生・久保・西山・落合・奥ノ井・栗枝渡・下瀬・大枝・
阿佐・釣井・今井・小祖谷の各名である。このうち,中世の文書に見える
名は,菅生・久保・西山・落合・阿佐・大枝・今井の七氏,さらに,
近世初頭の天正一揆・刀狩り強訴を経て,生き残るのは,菅生・久保・
西山・阿佐の四氏となる。

 ところで、勝瑞時代の祖谷山領主たちの戦力はどの程度のものであったのだろうか。直接これに答えを出す手だてはないが,近世の人口と石高からそれを推測してみる。
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第18話

 『祖谷山旧記』『祖谷山名主共成立』『阿波志』を併用して,近世中頃の石高を出すと,東西祖谷全山で1,200石弱,戸数は1,200弱,人口は約3,700である。東祖谷山十二名の合計は530石弱であり,全山の約45%弱と
なる。石高の割合でいくと,戸数は540程度,一家に一人兵士を出せば,
540の兵団を編成できる。

 また,『阿波志』には,名主は「兵馬一疋甲士一人従兵十人歩卒五十人を領す」とある。
単純比率でいえば,東祖谷十二名で700強の兵団編成が可能である。

 500から700の兵団と言えば,かなりな数である。例えば,天文二十二年(1553)の久米の乱では,上郡の兵を主とする実休方3,000に対して久米方800と『昔阿波物語』は記す。

とすれば,東祖谷山十二名総出なら,実休方の最低でも17%,最高23%を
占めることになり,久米方にほぼ匹敵する軍勢である。

 では,彼らは,どのような戦いをし,どのような戦術に長じていた
のか。
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第19話

 慶長五年(1600)七月,関ケ原合戦の際,蜂須賀至鎭は家康に味方し,蓬庵は高野山に登る。阿波へは安藝毛利の軍勢が討入る。そのとき,
東祖谷山,菅生・西山・落合・久保の四氏は,具足兜太刀刀を菰で包み,讃州より船路を忍び出,高野山へ向かい,蓬庵に目見える。その忠節に感じ,川口兵右衛門をして書付が下されたという。

 ここで,「刀を菰で包み,忍び出」という行動に注意したい。戦時下の当然の行動ではあるが,これが馴れた手法であれば別である。混乱に乗じて「隠密」に敵中を突破する,いわゆる戦国大名の使う「透(素)破」
「乱破」「間諜」「忍び」,現代風に言えば,「ゲリラ」である。祖谷山の中世名主たちは,それぞれその頭目たちではなかったか。

 これは,あながち見当はずれではないだろう。天正十三年から十八年に及ぶ反蜂須賀戦の六年に及ぶ戦いからして,また,その鎮圧の先鋒,一宇山の南氏(後の喜多氏)の存在にも,そうした頭目としての影が垣間見られる。いわば,毒には毒である。
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第20話

 祖谷山の口承の世界では,南氏にも喜多氏にも「魔法使い」としての話柄が残っており,また,戦前には,棒術や据物,甲冑術や骨法など古流武術の継承者もいたようである。

 このようなことから,祖谷山の中世名主たちは,時代の有力者に対する
「傭兵」の支配者として,その名子・下人を使った「遊撃戦」を売り物と
する存在であったと考える。

 そうしてその存在は,南北朝初頭から,応仁の乱を経て,戦国末期まで裏の戦力として諸侯に知られ,やがて蜂須賀氏による一国支配に至り,
それ故に殲滅されるべき運命に甘んじることになる。その終焉への戦いが
「天正の一揆」と「元和の強訴」であった。

 こうした歴史,とりわけ勝瑞擾乱の時代への思いは,かつて私にある物語を書かせた。主人公は鍛冶屋名主轟弾正,俗名與總,出家して「円覚院」という。

 一部はすでに演劇として公表したが,やがては,長慶・実休・長治三代にかかわる,「祖谷衆轟弾正」ら祖谷山中世名主たちの姿を,ぜひとも世に出したいと考えている。(完)