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遺跡の説明

藍住町指定文化財「勝瑞義冢碑」 「しょうずいぎちょうひ」

ぎちょうひ
   勝瑞義冢碑    

勝瑞義冢碑全文
勝瑞義冢碑 距阿波國徳嶋府、西北半日程、地號勝瑞、郡屬板野。時維暮春、麥秀桑猗、誰違農事、誰奪蠶要。奈何頻年淫霖兼風、坊與水庸、敗墜不收。爰仍舊貫、督約畚挿、土反其宅、水歸其壑。何圖掘發之際、與黄塵濁水相交、往往獲骨殖數條。固非塋域、復無誌石。防風長狄、不知誰何。

(勝瑞義冢(しょうずいぎちょう)の碑。阿波の国徳島の府を距(さ)りて、西北半日の程、地は勝瑞(しょうずい)と号し、郡は板野に属す。時維れ暮春、麦秀で桑猗(しげ)るに、誰か農事に違ひ、誰か蚕要を奪ふや。奈何(いかん)せん頻年淫霖風を兼ね、坊(つつみ)と水庸(ほりわり)と、敗墜して収まらず。爰に旧貫に仍りて、畚挿(ほんそう)(鍤に通用)を督約し、土は其の宅に反り、水は其の壑に帰らしむ。何ぞ図らん掘発の際、黄塵濁水と相交りて、往々骨殖数条を獲んとは。固より塋域に非ざれば、復た誌石無し。防風長狄、誰何(たれ)なるかを知らず。)

謹按、國初封建定制、奠牧施治。海内清寧、民未知干戈而己。抑勝瑞者、天文中守護細川持隆居趾、而爲家臣三好義賢所刄。彼惡其聲、立其孤眞之、而奉之自専權勢。永祿三年庚申、援其弟冬康、發兵至于和泉、爲流矢隕命。男長治嗣、猶義賢例。

(謹んで按ずるに、国初封建もて制を定め、牧を奠(お)きて治を施す。海内清寧にして、民未だ干戈を知らざるのみ。抑そも勝瑞は、天文中守護細川持隆の居趾にして、家臣三好義賢(よしかた)の刃する所と為る。彼は其の声を悪(にく)み、其の孤眞之(さねゆき)を立て、而して之を奉じて自ら権勢を専らにす。永禄三年庚申、其の弟冬康を援け、兵を発して和泉に至り、流矢の為に命を隕す。男長治嗣ぎ、猶ほ義賢の例のごとし。)

眞之己長、怨其如此、去而之伊井谷、將因福浦出羽守謀焉。長治欲乗機弑之、出陣下邑。昔者所進、今日不知其亡也。舊將多負、無復倚頼。彷徨二旬、適至別宮浦口。變起蕭牆、一宮成助・井澤頼俊、馳兵圍之、引刀自裁。天正五年丁丑、三月二十八日也。眞之亦爲里民所賊。長治有弟、曰存保。先此爲叔父十川一存義子、在左海津。勝瑞人迎而爲嗣。自勤保守、民亦歸心。 (

眞之己に長じて、其の此の如きを怨み、去りて伊井谷(いいたに)に之(ゆ)き、将に福浦出羽守に因りて謀らんとす。長治機に乗じて之を弑せんと欲し、下邑に出陣す。昔者(きのう)の進む所は、今日其の亡ぶを知らざるなり。旧将多く負(そむ)き、復た倚頼する無し。彷徨二旬、適たま別宮(べっく)浦口に至る。変蕭牆(しょうしょう)に起り、一宮(いちのみや)成(なり)助(すけ)・井沢頼俊、兵を馳せて之を囲めば、刀を引いて自裁す。天正五年丁丑、三月二十八日なり。真之も亦里民の賊する所と為る。長治弟有り。存保(まさやす)と曰ふ。此より先叔父十川一存 (そごうかずまさ)の義子と為りて、左海(さかい)の津に在り。勝瑞の人迎へて嗣と為す。自ら勤めて保守し、民も亦心を帰す。伊井谷は今徳島市飯谷町、左海は和泉の堺である。)

此時也、天下鼎沸、生靈糜爛、十數年來、攻伐無己。越有謙信、甲有信玄、殺人如草、視士如犠。北條氏泥關、長虵之心愈競、毛利氏垠海、短狐之面未革。加旃、松永久秀弑義輝於宮幃、明智光秀逼信長於招提。於是長曾我部元親、起自土佐、擇肉四國、所向無陣、勝瑞城乃爲其所圍。決戰二旬之餘、謀勇不敵、存保盟于城下、遜于讚岐。衆亡數百人、城壞無遺塵。爲天正十年壬午、九月二十一日。歷歳二百有二年、所獲蓋此物也。

(此の時や、天下鼎沸し、生靈糜爛(びらん) し、十数年来、攻伐己む無し。越に謙信有り、甲に信玄有り、人を殺すこと草の如く、士を視ること犠の如し。北条氏は関に泥(とどこお)るも、長虵(ちょうだ)の心愈いよ競ひ、毛利氏は海に垠(かぎ)らるるも、短狐の面(おもて)未だ革(あらた)まらず。加旃 (しかのみならず)、松永久秀は義輝を宮幃に弑し、明智光秀は信長に招提(しょうだい)に逼れり。是に於て長曽我部(ちょうそかべ)元親は、土佐より起りて、肉を四国に択び、向ふ所陣無く、勝瑞城乃ち其の囲む所と為る。戦を結(まじ)ふること二旬の余、謀勇敵せず、存(まさ)保(やす)は城下に盟ひ、讃岐に遜(のが)る。衆亡ぶもの数百人、城壊(やぶ)れて遺塵無し。天正十年壬午、九月二十一日と為す。歳を歴ること二百有二年、獲る所は蓋し此の物なり。)

里正岩佐惟彰、字谷助、築義冢藏焉。此其志也、衆之望也。傳曰、經正則庶民興、庶民興斯無邪慝矣。冤魂而有知、水旱疾疫、凡有祈焉、則其必有所驗。 天明三年癸卯秋九月二十一日、儒學教授、那波師曾撰。

(里正岩佐惟彰、字は谷助、義冢を築いて蔵(ほうむ)る。此れ其の志や、衆の望みなり。伝に曰く、「経正しければ即ち庶民興り、庶民興れば斯に邪慝無し」と。冤魂にして知(ち)有らば、水旱疾疫、凡そ祈ること有るときは、即ち其れ必ず所験(しるし)有らん。天明三年癸卯秋九月二十一日、儒学教授、那波師曽撰。) (勝瑞義冢碑)

『近世阿波漢学史の研究』竹治貞夫著 風間書房